HOMEDOCTOR’S EYE若手医師が語る琉球大学医学部卒業 亀山大介 先生

琉球大学医学部卒業 亀山大介 先生

クローズアップドクター

「危機管理型医療」に関心を抱いたきっかけは…

亀山大介(かめやま・だいすけ)

【プロフィール】

亀山大介(かめやま・だいすけ)

2006年3月 琉球大学医学部卒業。
一貫して医療におけるクライシスマネージメントに関心を抱いている。また学生時代より僻地・離島医療に興味を持ち、陸上自衛隊航空基地での研修会も企画、実施するなど積極的に現場へ足を運ぶ行動派。
現在は琉球大学医学部付属病院の卒後臨床研修プログラム「RyuMIC3期生」の一年目研修医として日々奮闘中!

【「危機管理型医療」に関心を抱いたきっかけは・・・】

私が一貫して関心を持っているのは「危機管理/クライシスマネージメント」なんです。具体的には、「いつ起こるかわからない損失をなるべく小さく抑えるこ と」、「それが起こらないよう予防対策すること」といったらわかりやすいでしょうか?医療でいえば救急・災害医療が前者に当たり、公衆衛生や医療行政など が後者に相当すると思います。これらを総称して「危機管理型医療」といってもいいのではないでしょうか?
私が高校1年だった1995年は災害の年といっても過言ではありません。1月15日には阪神淡路大震災が発生しました。6434名と途方もない多くの命が 失われる様子がテレビに映し出されていました。そして3月20日の地下鉄サリン事件は自分も通学に利用していた地下鉄へのテロで12名が死亡するという痛 ましい人的災害でした。
自分に降りかかってもおかしくない『不条理な死への恐怖や怒り』が危機管理型医療に関心を抱くきっかけでした。それと同時に消防・自衛隊・医療者による献 身的な救助・救命活動を見て、改めて自分の平穏な日常が多くの人々によって保たれていることを認識し、彼らのような危機に立ち向かう人たちへのヒロイズム を感じて、自分も将来そういった役割を果たしたいと思いました。これが医師を志した原点となっています。

【そして「沖縄の医療問題」への興味】

大学受験の際は「医師になれるならどこの医学部でもよい」と考えていて、センター試験の点数で入りやすかった琉球大学医学部へ入学したのですが、これは私 にとって幸運な事でした。自分の価値観を変え、視野を広げる機会に恵まれたからです。特に影響を受けたのは公衆衛生学と沖縄の医療史を教えていただいた小 川寿美子先生(現 名桜大学講師・東京大学医学教育国際協力研究センター客員研究員)の存在です。公衆衛生、国際保健の専門家である小川先生はラオス国カ ムアン県に92年から3年間住み込み、必須医薬品回転資金(DrugRevolvingFund)を立ち上げて同国の公衆衛生の向上に尽力されました。 DRFでは国営医薬品工場から末端村落までの流通経路の確保、各村で医薬品の管理・販売、衛生指導などを行なうビレッジヘルスワーカーの訓練育成、そして 各村でのプリペイドチケット購入をもって、必須医薬品とその原資の回転を確立させました。この功績で小川先生はラオス政府から功労章勲3等を受けていま す。
沖縄の戦後医療は、極端な医師不足を補うため、地域限定で医師では無い人の診療行為を認めた「医介輔」、アメリカのpublic nurse制度をまねた「公衆衛生看護師」といった、“あるもので何とかする医療”から始まりました。米国型臨床研修でその名を全国に知られる沖縄県立中 部病院も沖縄に医師を教育する施設が無いため、当時の施政権者である米国からハワイ大学のシステムを導入して総合診療医の育成を始めたことが今日まで続い ているわけです。ラオスのプロジェクトも沖縄医療史も危機管理の考え方に通ずるものだと思ったわけです。小川先生は沖縄医療史についても実際に離島を回っ て調査・研究をされていて、現場に足を運び、自分の目で見て考える事の大切さを教えていただきました。
以来、学生時代は努めて現地現場主義を実践しました。
例えば沖縄では離島診療所を実際に訪ねて泊り込みで離島医師の仕事を体験したり、離島急患搬送に携わる人の話を聞きたくて、有志の学生を集め陸上自衛隊航 空基地での研修会も企画実施するなどしました。興味があるところ思いつくままに行動していると,結果として様々な現場を支える人々の思いに触れることと なったのです。その時の貴重な経験は、自分だけが知っていてもあまり意味がありません。ですから学内で発表したり、メールマガジンなどに掲載し多くの人に も知ってもらえるように努めています。

【沖縄の医療体制と現状】

沖縄といえば皆さんが真っ先に思いつくのは青い海と空、そしてゆったりと流れる時間の中で生活する沖縄の人々でしょうか?
医療でいえばやはり特徴的なのが離島医療でしょう。南北400km東西1000kmに渡って点在する沖縄の離島には医師一人の診療所が19箇所あり、診療 所で手に負えない急性期症例はヘリで中核病院へ空輸しています。本来なら全ての搬送ケースに医師が付き添うことが理想ですが、いろいろな理由があって添乗 率は平均40パーセント程度です。そして県内の病院に一つもヘリポートが無いため、沖縄本島に到着しても那覇空港から渋滞の那覇市内を救急車で搬送しなけ ればなりません。このために急患にも関わらず病院到着に時間がかかってしまいます。今では各地にドクターヘリが登場し、その速達性が生命予後に有効だとい うことは明らかですが、現状ではそれが全く活かされていません。少なくとも本島内に1つは病院ヘリポートを作る必要があるのではないでしょうか?  2000年沖縄サミット開催時は琉球大学病院にヘリポートが設置され、VIPの急病・負傷に即座に対応できる体制が敷かれていましたが、サミット終了後ヘ リポートは駐車場になってしまいました。予算がないといって急患空輸体制を今のまま放置することは、離島の急患を放置することと同義であり、「VIPは助 けるけど一般の人は助けない」と沖縄の医療が患者さんの信頼を失いかねないことだと思っています。

私は大学入学で初めて地元東京を離れたのですが、沖縄にきて衝撃だったのは東京とは大きく違う医療サービスの水準でした。世間知らずの私は専門医がそろう 総合病院がいくつもある、東京の医療水準を当然と思っていたところがありました。しかし沖縄では、離島・僻地に赴任する医師や、中核病院でも脳外科や産婦 人科等の専門医が確保できない、という都市部にはない根本的な悩みを抱えています。昔から“島ちゃび”(離島苦)として語られる医師不足の現実が今も続い ています。
1979年10月「島嶼環境などに由来する困難な地域医療の充実」を理念に掲げた琉球大学医学部の開設は、医師不足にあえいできた県民にとって悲願の実現 だったわけです。しかしながら1期生が卒業した1987年から2002年まで16年間の卒業生1426人の進路を調べた結果、離島・僻地診療所に勤務した 医師はわずか7人(現在は1人)。現状では無医地区の解消などの期待には必ずしも応えていない現状があります。
沖縄だけの問題ではないのでしょうが、離島や僻地での診療に耐える医師・総合病院における専門医の確保、県立・大学・民間病院の役割分担や協力体制の整備 と、まだまだ課題が山積しています。沖縄は人口120万人の島の中である程度完結した社会なので、本土よりもそうした問題が表面化しやすいといえます。沖 縄医療の伝統である危機管理意識を発揮して、時間をかけても前向きに進んで行ってほしいです。

3年前から新臨床研修がスタートしました。沖縄の医療にとってなによりのプラス材料は、県内の臨床指定病院の研修医定員がほぼフルマッチであり、今年も全 国から140名の研修医が沖縄にやってきて研鑽していることです。沖縄県内では、いままであまり人事交流のなかった大学・県立・民間の病院を研修医が相互 に行き来するようになり、全ての離島診療所も研修施設に含まれ選択研修が可能になりました。医学生の教育カリキュラムにも昨年から離島・僻地診療所へ全員 を行かせる離島診療所実習が入りました。若い世代が実際に離島医療の現場を見ることはなによりの意識改革になるはずです。琉球大学医学部のこれまでの20 年間は大学病院としての体制を整えるために精一杯でしたが、ようやく地元沖縄に根ざした医師養成機関として舵をきりはじめています。

目指すは救急・災害医療の最前線!

学生時代は沖縄県内の離島診療所はもちろんですが、Drヘリを運用している救命救急センターでの研修や、災害時の救援体制を知るために自衛隊に体験入隊、衛 星を用いた災害監視システムへの興味から宇宙航空研究開発機構(筑波・種子島)でのインタ−ンにも参加しました。また松下政経塾への短期入塾では政治家を 目指す人達との交流の中で、制度をつくり運用することの大切さ、社会をよりよくしたいという志を持ち続けることの重要性と希少さを学びました。
そうした経験を通じて、ますますクライシスマネージメントに関わりたい、臨床であれば救急・災害医療の最前線にいたいです。特に患者が受傷・発症から初期 治療にたどり着くまでの時間の縮小をさせるプレホスピタルケアまで含めた救命救急医療の研修を受けたいと考えています。あるいは災害・救急医療体制を法や 条例の面から整備・設計することにも強い関心があります。
制度設計のダイナミズムを感じさせるよい例があります。
1995年の阪神淡路大震災は政府・県による自衛隊災害派遣命令の発出の遅れ、そして運輸省が地震災害時は安全が確保できるまで着陸させないという航空法 を順守した結果、ヘリによる救助がほとんど行なわれず6434名の命と10兆円の国富を灰燼に帰すという、国家的人災でした。それを機に医療界ではトリ アージの意義が浸透し、行政では災害現場へ派遣され、救命活動を行なう「緊急消防援助隊」と医療チーム「DMAT」の編成、ヘリコプターによる救助・救急 ができるように大幅な法改正がなされ、2004年新潟中越地震では1時間後には各地から救助隊が出動し、翌日には20機のヘリコプターが救助を開始し、阪 神淡路の際よりも迅速な救助が展開されていました。10年間で大きく改善されたといえます。制度が現場に立つ人たちの追い風にもなれば、足かせにもなると いうこと。ですから制度や法を作る行政の仕事に、医師として関わる事もやりがいのあることではないかと感じています。突然の命の危機で理不尽な思いをする 人を少なくしたいのです。
そしてもう一つはやはり沖縄。
縁あって沖縄で医学を修め、沖縄の患者さんや先輩医師に育ててもらってきましたので、いずれなにかの形で沖縄の人達のために還元したい、と思っています!

【医療有資格者の皆さんへ一言!】

医療有資格者の皆さんは、日々の患者さんの表情や、体調の細かな変化に気がつくことに長けていると思います。おそらく、日々の生活の中で、業務について、 あるいは社会の動きについて「もっとこうしたらよくなるのに」と気付く能力のある人が他の職種に比較しても多いのではないでしょうか?何かを改善してよく したいというモチベーションを持っていることもその人だけの才能だと思うのです。気付きの能力がある皆さんには積極的に機会をとらえて発言してほしいと思 います。物事を変えるにはもの凄いエネルギーがいるわけです。医療の実態を多くの人にわかってもらうことが改善へのうねりにつながることは多いはずですか ら。

≪最後に〜研修医として〜≫

ここまで偉そうに言ってしまいましたが、私も1年目研修医として患者さんと向き合う毎日で、肉体的・精神的にも余裕がないことがほとんどで、意見を発言する元気がない時もあるのが実情です。だから、かくありたいという自分への戒めでもありますね。
しかし、学生から医師へという環境の変化は想像以上にストレスの大きいものでした。給料も安いし。このあいだ時給で計算したら600円切っていて(涙)、 給料日前はカップラーメンがつづいたり。医師としてまだ6ヶ月ですが正直つらいことの方が多いです。こんなときに同じように苦しみを共有している同期の存 在には助けられます。私は幸い同僚に恵まれており、お互い励まし合いながらやっています。日々反省することばかりですが、あまり思いつめすぎずに楽観的に 乗り越えて行きたいですね。

追伸〜インタビュー後記〜

今回ご来社下さいました亀山先生は、研修医1年目として超多忙なスケジュールをこなしながらも、医療のみならず医療体制の制度面など根源的な社会的背景に も関心を持つエネルギッシュな先生です。絶えない多くの災害、そしてテロ等の悲惨な人的災害が不安視される現代において、先生のような存在は大変貴重であ り、私達に立ち向かう勇気をも与えてくれます。今後の益々のご活躍を期待しております!

亀山先生が沖縄の医療について執筆されています。
以下もご覧下さい!
医学界新聞「離島医療の現場を訪ねて」2005年2月21日
◎MediMedi「フライング・シーサーは波濤を越えて」2005年6月〜11月 ※休刊中

当社の転職支援サービス

わたしたちは、誠意を持って
医師の皆様をサポートします!

求人をお探しの医師の方無料会員登録

全国25拠点のネットワーク。転職・1日単位の健康診断・アルバイトまで丁寧にサポート!

MC-産業医ネット
官公庁・自治体様向け アウトソーシング事業 お問い合わせはこちら>>
求人をお探しの医師の方無料会員登録

わたしたちは、
誠意を持って
医師の皆様を
サポートします

ドクターズネットはスマートフォン対応
すすめスポット求人多数
メディカル・コンシェルジュ
ページのTOPへ