笑いを医学に
【プロフィール】
昇幹夫(のぼりみきお)
1971年 |
九州大学医学部卒業 九州大学医学部附属病院麻酔科入局 |
1975年 | 福岡大学附属病院(産婦人科)病院講師 |
1982年 | 大阪府 浜田病院産婦人科勤務 (現在も非常勤勤務中) |
1986年 | (大阪府)谷口病院 (岡山県)三宅医院勤務 |
1994年 | 日本笑い学会 理事 |
1997年 | ガン患者15名とともにモンブラン山麓トレッキングツアーに参加 |
2000年 | ガン患者200名と一緒に日米合同富士登山に参加 |
2003年 | 末期ガンから生還した百人がガン患者千人にその体験を語る「第1回千百人集会」に参加 |
【専門】
麻酔科 産婦人科 笑いと健康
【著書】
・笑いは心と脳の処方せん(リヨン社)
・60歳からの華歳な生き方(保健同人社)
・笑って長生き−笑いと長寿の健康科学(大月書店)
・「過労死」が頭をよぎったら読む本−いつも忙しすぎるあなたの健康管理学(KAWADE夢新書)
・笑いと食と健康と(芽ばえ社)など多数
【その他の活動】
日本笑い学会 副会長
元気で長生き研究所 所長
医師を志されたきっかけを教えてください。
私はどちらかというと文学に興味を持っていました。源氏鶏太(ゲンジケイタ)という作家のサラリーマン小説が特に好きでした。しかし、実際に自分がなれるかどうかは少々不安がありました。だからといって特に物理と化学が大の苦手なので理系の研究者も難しい。消去法だったという大きな声では言えない理由があります。
私が医学部を経験して感じたことですが、10代の頃に自分が目指す専門教育を決めてしまい、その世界しか知らないという現在の日本の教育制度には少々疑問が残ります。特に患者を診る医師を目指すのであれば、自身が入院して患者体験をし、外科手術を受けたらどんなに痛いかを体験するくらいがいいと思います。これは極論ですがそれくらいの気持ちも必要ですし、またその為にはある程度の年齢と経験も必要だと思います。医師は実際のところ、丈夫でないと勤まりませんが、それだけでも駄目だという事ではないでしょうか。
研修医の頃はやはり大変でしたか?
そうですね。私はやはり患者を診たい、人と接したいと考えていました。そして臨床に携わる医師であれば、必ず患者の最期に立ち会うことになります。その際に救急蘇生ができないと私は後悔するだろう、その専門家になるには麻酔科しかないと考え、当初は麻酔科を選択しました。その後はそこから考えようと思っていたのです。
しかしすぐ、実は麻酔科は患者さんと接するときは患者さんの記憶をなくす仕事、つまり患者さんを眠らせる仕事なので患者さんは誰も私の事を憶えていてくれない、という事に気付いてしまいましたが(笑)。
現在、麻酔科の医師が不足しているのは非常にハードな勤務環境が要因でもあると思いますが、患者さんから直接「ありがとう」と言ってもらえないからかもしれませんね。
それも一因かもしれませんね。手術が3時間あるのなら、麻酔をかけるのに1時間・覚ますのに1時間・合わせて5時間が麻酔時間です。9時から手術であれば7時半には準備をしておかなければならない、そういった勤務環境です。
研修医のときは比較的簡単な手術の麻酔ばかり担当するのですが、2〜3年も経てば心臓病や臓器移植など、麻酔をかけただけで心臓が止まってしまうのではないかと思うような状態の患者が麻酔科に回ってきます。それは大変なプレッシャーです。
そういった現場の背景もあり、専門医制度が出来たのが実は麻酔科が最初です。医学部を卒業し、免許を取得すれば何科でも選択できますが、麻酔科は最低でも全身麻酔300例、または麻酔科の指導医のいる病院で2年間研修をしなければ麻酔科という標榜は出せない、そして5年で試験を受けて指導医になる制度を最初に掲げたのです。私も最低2年間はがんばろう、そう思いました。
麻酔は深くかけると心臓に負担がかかって呼吸が止まります。しかし浅くかけると手術ができません、死なない手前で止めておくというのが麻酔科医の仕事なのです。そういう意味で麻酔科医は精神的に大きなストレスがかかります。また、麻酔科医は蘇生の道具が全て手元に揃わない限り麻酔を掛けてはいけないと徹底して教わりました。突然意識がなくなった時にそこから蘇生の道具を探していたら間に合いません。酸素が3分途絶えると脳はダメージを受けてしまいます。
ちょっと麻酔、というのはあり得ないのです。小手術・大手術というのはありますが小麻酔はあり得ません。
常に全力投球なのですね。
そうです。最低2年と思っていながら結局5年近くもいたのですが、経験年数が増えれば増えるほどさらに大きな手術に立ち会う割合が増えてきます。当たり前なのですが、それはやはり大変なストレスでした。
麻酔をかけるには麻酔科医が担っている全身管理ももちろんですが、例えばある糖尿病患者の手術の際、その患者がどの薬を使用しているのか、またこの手術をする時にどういう麻酔薬を使用すればそれがどういう影響を及ぼすのかなどを熟知していなければなりません。すなわち臨床薬理の専門家でもあるわけです。また、ガンなどの痛み止めとして麻薬をよく使います。ガンは一般的に「苦しい」「痛い」と言われているのは医師が呼吸抑制という副作用を恐れて麻薬の量を少なくしか使わないからです。山形大学の教授を定年で辞めた後、日本海病院の院長になった一柳邦男先生が麻酔科医を指導した際に、1年間山形県全土で使用するモルヒネの約10分の1をその病院だけで使用しました。その結果、『あそこで亡くなるガン患者は誰も痛みを訴えない』という評判だったのです。賛否両論はあれ、患者にとってはいいことだとも解釈できますよね。
全身管理を学べるという意味で、研修医は麻酔科で多くの経験を積むのがお勧めかもしれませんね。
そうですね。3ヶ月くらいで麻酔の基本は覚えられますが、麻酔は必ず途中で様々なトラブルがあります。そのトラブルに対応ができるまでに1年は必要です。
私が麻酔をかけている目の前で患者の心臓が止まったという経験は少なくとも4回あります。自分自身の心臓が止まりそうになります。心電図のモニターを見てスーとまっすぐになっているのを見るとどこかの線が外れたのではないかと思いたくもなります。そんな修羅場をくぐってきました。
それからお父様と同じ産婦人科に転科されたのですか?
そうです。若い頃は父親と同じ大学、同じ道には進みたくないと反抗心がありました。実家の鹿児島から離れたいと九州大学を受験したのですが、医学部に入ってよくよく考えてみたら私の父親の出身校だった、逃げたつもりで結局は逃げきれなかったというわけです。(笑)まして産婦人科になった今、産婦人科医である父親が教えた後輩が母校の教授になっていますしもう逃げ切れませんね(笑)。
実際産婦人科での勤務に麻酔科での経験が役に立ったとはいうことはたくさんあります。出産時に大量出血があり輸血で2万ccを超えて使用したケースが4例あります。当時は輸血瓶1本200cc、それを162本並べた例もありましたよ。
そして1970年代に、針麻酔で帝王切開をしたという中国の情報が入ってきました。そんな事が出来るのかと思い、中国の上海で中医学を勉強に行った事もあります。当時は漢方を使ったり、お産の時に針を使って痛みを軽くしたり、逆子を回転させてよい方向に持っていくような研究をしていました。
全国津々浦々にひと財産をつくる、かなりご縁がありますね。
そうですね。1980年代は鹿児島の病院を拠点として、月の半分程度は全国の優秀な先生の見学に回っていました。お腹を切らずに筋腫を産道から取り出す膣式子宮全摘術が得意な札幌医大にいたこともあります。金沢市の内田病院院長の故内田一先生は、子宮筋腫の手術を10分で終わらせるのです。時計が壊れている!と当時は思うほどとにかくすごい方でした。開腹手術もそれまでに10万例を越えていました。手術台が2台あり、交代で扱っていくのです。1日20例行ったのを見たこともありました。
大阪に行ってからも様々な病院や医師との出会いがありました。大阪の泉南地区の病院時代では、月に100名、年間1200名ほどを扱いました。その当時その病院に医師は3名しかいなかったので、私は1日に出生証明を9名書いた事があります。3名帝王切開をして6名が通常分娩でした。そんな忙しい状況でしたので、当時私が取り上げた赤ちゃんやお産のことはほとんど憶えていないのです。ただ無事にいった、それだけでした。 そんな中、高校卒業30周年記念同窓会がありました。200名の卒業生のうちすでに8名が亡くなっており、そのうち4名が医師でした。50代手前というそんな頃です。私はこのままの生活をしていたら5人目の死亡は絶対に自分自身だと感じました。
そんな時に岡山の三宅馨先生という方から電話があり、JICAの仕事でモンゴルに1週間行かれたとの事で、写真を見せて頂きました。年も1つしか違わないのにどうしてこんなに生活が違うのだと思い、これが転機とばかりに誘われるままに岡山に移りました。
そこで先生の転機がまた訪れたのですね。
そうです、ちょうど岡山県倉敷市の伊丹仁朗先生という方がモンブラン10周年登山を企画し、その際に医療スタッフが必要だと耳にしました。こんな事もないとモンブランなんて行く機会もないと思い申し込みました。そこには、ガンでもこんな素晴らしい体験ができる。むしろ治った後の方がガンになる前よりも豊かでいい人生だ、ウエラー・ザン・ウエルという方が大勢いらっしゃいました。
そして今度はガン患者の富士登山をやりたい、という話が持ち上がりました。ボランティア500名、そして東京女子医大山岳部の医師の方、自衛隊の協力も得ました。それが2000年の8月です。そしてちょうど3年経った2003年に、今度は末期ガンから生還した百名がガン闘病者千人にその体験を語るという第1回千百人集会に参加しました。その3年後の2006年には大阪・名古屋・東京などでも同様の集会をやりました。見えざる手に引かれて3年ごとにそういう現場に立ちあっています。
「ガンだから死ぬのではない、お役目が終わったからお迎えが来る」のです。持ち時間は皆1日24時間、平均寿命は80歳です。365日が80年で約29000日。もう何日過ごしましたか?あとどれだけ残っていますか?睡眠時間などを引いていったら本当に楽しい日が何日ありますか?楽しいことは人が作ってくれるわけではありません。自分自身で楽しい思い出を一杯作り、あぁ面白かった、じゃあね!と言う事ができればすばらしいと思いませんか?人生はチャンス平等、でも結果は不平等だと思います。
そうですね。また、そういった活動に参加したいという昇先生のご意思があったから先生の現在があるのですね。
ガン患者は、自分にはもう時間がないという思いがはっきりとあります。残された時間があと僅かと分かった時、どう生きるかということです。誰にでも必ず終わりは来ます。最後は楽しい事しか思い出しませんが、それを人は作ってくれない。自分で作るのです。楽しい人生とは楽しいことをいっぱいやった人ですね。
昇先生は当初医師として「体全体を診る」ことに精力を注いでいらっしゃいましたが、今は「人の生から死まで全てを診る」ことに変化されたのですか?
厳密には健康増進を視点にした診方です。病気になるのは失敗ではなく、それは受け止め方の問題です。貴方にとって貴方のまわりに起こる事は全て試され事です。そう考えると昨日までと生き方が全く変わるのではないでしょうか。明日、目が覚めるかどうかなんて誰にも分かりません。しかしこんなに楽しかったらいつ死んでもいいという言葉があるでしょう。死にたくないという人はそれをやらなかった人です。でもそんな最期がくることはわかっていたはずです。でもあなたはやらなかった、いつかそのうちと先延ばしにしていただけです。それには今日、一日を大事に生きる、ベストをつくすこと。明日ではダメです。アスベスト(明日ベスト)と言ってとても危ない。(笑)同窓会でどうしてあんなに元気だったのに・・、という話がこの年になるとたくさんありますね。
最後に医療有資格者の方にメッセージをお願いします。
「はたらく」という言葉は「傍(はた)を楽にさせる」事だとも言います。皆さん、いろいろなメッセージを送っています。それをキャッチできるセンサーを持ち、そうだよなと気付ける事が大切です。プレゼントは「今」、神様が全ての人に今という時間をプレゼントしてくれているとも解釈出来るのではないでしょうか。
「人の為」と書いたら「偽」という字になります。回りまわって自分自身の為なのです。「何のために生きるのか」とアンパンマンの作者のやなせたかしさんも書いています、人は人を喜ばせるために生きています。誰だって誰かの笑顔が見たい、その笑顔を自分の得意技で作り出す、そして喜んでもらえたらまたがんばろうという気持ちになりますよね。それぞれ自分の得意分野で誰かに喜んでもらえるのが一番だと思いますよ。
ありがとうございました。