人を診る医者であれ
【プロフィール】
野原 隆司(のはら りゅうじ)
1977年 | 京都大学医学部卒業 |
1977年 | 京都大学医学部附属病院 研修医員 |
1982年 | 京都大学医学部大学院(内科) |
1986年 | 学位取得(医学博士:京都大学) |
1986年 | Washington Univ., Cardiovasc Div (Dr. Burton E Sobel)留学 |
1998年 | 京都大学医学研究科循環病態学講座 講師 |
2001年 | (財)田附興風会医学研究所北野病院 循環器科部長 京都大学連携大学院講座 客員助教授・非常勤講師(現在に至る) |
2003年 | (財)田附興風会医学研究所北野病院 内科統括部長・リハ部長(現在に至る) 京都大学医学部 臨床教授 兼任(現在に至る) |
2005年 | (財)田附興風会医学研究所北野病院 副院長・心療内科部長兼任(現在に至る) |
2006年 | 京都大学医学部保健学科 非常勤講師 兼任(現在に至る) |
2007年 | (財)田附興風会医学研究所北野病院 心臓センター長 |
【専門】
虚血性疾患・心不全の診断と治療・突然死の病態・心筋代謝(核医学)・心臓リハビリテーション
【著書】
・心臓突然死 虚血性心疾患を中心に(医薬ジャーナル)
・狭心症・心筋梗塞のリハビリテーション1版、改訂版(南江堂)
・おもしろ看護心臓病学(メディカ出版)
・心臓リハビリテーション昨日、今日、明日(最新医学社)
・失神を究める(メジカルビュー社)
【その他の活動】
日本循環器学会ガイドライン班長「心血管疾患におけるリハビリテーションに関するガイドライン」
医師を志されたきっかけを教えてください。
どうしても医師になりたかったと云う思いは最初あまりありませんでした。
私の出身の富山県は、当時七三制と云って、三割しか上に行けないというかなり厳しい教育体制を取っていました。偏差値によって進学学部がおのずと決まっていきました。また、その頃私は急激に近視が強くなり、担当して頂いた高岡市内のある病院の先生が非常に良くしてくださいました。極めて懇切丁寧に、近視の症状や病気に対する知識、生活の上で気をつける点などを教えてくださいました。私はその時に医師という職業に対して非常に信頼感を持ったのです。
周囲は、こういう偏差値ならば医者になりなさい、と言っていましたが、医者という職業に対して初めて本質らしいものを感じたのです。人に対して信頼感を与えられるし、悩んでいる人を救う事が出来るのではないか、そう言うことを漠然とその時思ったのです。
その後様々な医者に関する本を読みました。最終的なきっかけは、格好よく言えば『赤ひげ診療譚』と言う本であることは事実だと思います。
実際に医学部に入られて、描いていた事と現実とで最も違うと思われた事は何ですか?
私はギャップも含めて何でもある程度受け入れてきたと思っています。
取りあえず人間が知りたかったので、高校生〜医学生まで様々な事を経験しました。高校生からロン毛でグループソングを唄ったり、ラグビー、柔道、剣道もやりました。それから本を一生懸命読みましたね。
医学生時代は、寮で6年間を過ごしました。そこにはヘルメット学生…や、また逆に都内有数進学校を主席で卒業してきた人などが混在していました。私がこれまで経験したことのないような事が友人を通じて知り得たのが非常に面白かったですよ。
また、私は東京で浪人生活を送りました。今なら良い大学に行こうと思えば予備校に行くのは当たり前ですが、その頃は世間の見る目も厳しく、とても富山にいられなくて飛び出し、東京で予備校生活を送りました。その生活も今思えばなかなか経験的には大事でしたね。
私は、医者を形成する因子としてこうした様々な経験は重要だと思っています。医者は自分より経験のある方や目上の方に対して指導をしたり生活全体のアドバイスをしなければならない場面が多々あります。ところが、医者を目指す人は一生懸命偏差値を上げる事だけを考えていることが多い。様々な経験や酒、恋愛も全部無しの一直線の人生です。一番近道をしてきた人は、人を診ずにデータだけを重視する医者にならざるを得ないのではないでしょうか。
ですから私は学生に祇園などで大いに遊べと説いています。こういった遊びや社会経験を通じて言葉の話し方や上下関係、社会のしきたりなどを憶えていくと思います。
その後、先生が循環器内科医を目指されたきっかけを教えてください。
私はかなり早い時期から循環器系をやりたいと思っていました。私は研究に凄く興味があったし、人間を知りたい、接したいと思っていましたので、外科よりも内科で研究をしながら人間そのものを診て物を書きたい、そう思いました。
この循環器の分野は勝負が早いのです。悪くなるのも早いのですが良くなるのも非常に早い。また、大昔から心臓というのは命の根源だとみんな知っていました。(ビンダルの洞窟で見つかったゾウの壁画には胸に心臓が描かれている) 心臓は大事だ重要だと分かっているからこそ不安の材料にもなりやすいのです。ただ、心臓ほどコントロールしやすい臓器はありません。形、収縮力、心臓の大きさなど臨床とすぐに結びつく関係が非常に多くあり、力学的にも数式で明らかになっているものが多いのです。私がやっても誰がやっても治療は大体方針が決まってくるのです。非常に理論的である事と非常に勝負が早いことです。私の性格にも似ています(笑)。
昔と今とで循環器の技術やイメージが少しずつ進化・発展しているかと思いますが、その辺りをお聞かせ下さい。
治療ひとつ取ってもかなり違いますよ。例えば心不全の治療です。ちなみに、「心不全」という名前は厳密には病名ではなく、心不全という状態です。病名は心筋梗塞や心筋症、不整脈などがありますが、それらが悪くなって心不全という状態になるのです。
昔私が研修でやってきたのは、心臓の筋肉は弱れば叩いて強めてやるという考えでジキタリス、カテコラミンなどの薬で刺激する治療方法でした。ところが心臓というのは強まる薬を使うとかえってへこたれてしまうものと分かってきました。例えば疲れた貴方に、もっと仕事をしてもらうには、もっと仕事をしろと尻を叩くとへこたれてしまいますね。逆に、10の内5つの仕事を取り除いてやると疲れが取れ、その後の仕事がはかどる。要するに心臓の負担を取ってやるのです。β遮断薬 という心臓の負担を取り、血圧や心拍数を少し下げる薬を使います。また、最近は心不全の状態になると、神経の循環因子や様々な血液因子が変化するという現象が分かってきたので、これに対しての治療方法へと変わってきました。要するに、『刺激し強めるという治療⇒減負荷という治療⇒心不全で生じる全身の変化を調整するという治療』へと変化してきたのです。
最近では、心不全は悪化すると非常に死亡率が高くなるので、心臓病は全身の病と捉え、全身に対する治療へと変わってきています。
事前に何かの検査で分かるのですか?
そうです。検査によって、悪くなる因子を事前に取る、ないしは悪くなりかけの変化を検査でキャッチし、すぐ治療を始めることが可能です。
また、新しい取り組みのひとつに再生医療があります。心臓の筋肉を作る遺伝子を入れてやります。骨髄の細胞を使って疲れた心筋、あるいは血管を再生する治療もこれからの大きな取り組みです。また、CRTDという特殊なペースメーカーもあります。
もうひとつ興味深いのは、睡眠時無呼吸に対する取り組みです。これは非常に心不全に悪く、突然死を引き起こす原因にもなります。
心不全ひとつを取っても、収縮を強める治療から全身管理へ、また心不全の早期発見やCRTD、睡眠時無呼吸や再生医療へと進化しているのが分かって頂けたと思います。
運動療法、リハビリテーションも非常に重要です。昔は心筋梗塞になった後でリハビリテーション治療をしていました。現在は、高脂血症や糖尿病を治療する、煙草を止める、運動をきちんとする、そういう包括医療が非常に重要であると説いています。
現在、北野病院では早期発見に関して何か積極的な取り組みをしておられるのですか?
少し外れますが、我々の病院は2人の主治医というのを指導しています。開業医の主治医と病院の主治医、この2人の主治医を持つことをテーマとして病院から開業医を逆紹介しています。我々の病院は急性期病院としての役割を果たさなければなりません。開業医さんは重度の方以外の患者を早期発見も含めて引き受けて頂きたいです。
また、我々の病院だけではありませんが大きな問題のひとつとして各科の連携が挙げられると思います。高齢化に伴い、皆さん様々な病気を持ちます。しかし、専門病院などは専門外の症状を診ません。例えば国立の循環器病センターなどで胃癌や白内障になったらこちらに送られてくるのです。循環器しかないのです。うちは総合病院ですから、心臓センター、糖尿病センター、神経脳センター、消化器センターなど様々なセンターで外科・内科が連携して助け合います。ところが、心臓病や肺炎、認知症など多くの疾患を持つ患者さんは一体誰が診るのでしょうか。『真ん中の組織』これが、私が今一生懸命音頭を取りやっていることです。『総合診療センター』を立ち上げました。総合診療は、症状すべてをまとめて患者さんに話してあげる役割も担っています。すなわち、人間を診るのです。
先生が今まで培ってこられた人間力が今こういう形で実を結んでいると思います。
病気を持っている事がその患者さんにとってネガティブな事だとして捉えないほうが良いと私は思います。病気が完治しないのであれば、それを土台にして人生を考えなさいと説いています。病気はもうしようがない、薬を飲むのもしようがない。自分の人生はどうだったかという事を、病気をきっかけにして学んでいく。いかに自分がよい人生を送るかという事に少し協力させてもらうのが医者であると思います。
医者に出来る事は限られています。僕は『死の瞬間(*1)』という本が好きです。そこには『医者というのは「頑張りなさい、頑張りなさい」と最後まで言わない、手を握るだけでいい』と書いてあります。頑張っているのは事実だからそんな事をわざわざ言う必要はない、静かに手を握る、その信頼関係が医者にとって一番良いやり方なのではないでしょうか。
ちなみに、ひとつ私から質問があるのですがよろしいですか?現在、患者と医者の関係は悪化していると感じています。あなたはどう思いますか?どちらに責任があると思いますか?
あくまでも私の考えですが、どちらにも責任があると思います。患者さん側は、医師は全能だと思い込んでいて、医師側は患者さんの奥底にある本心まで察する事が出来なくて病気や症状だけを診ている、お互いの信頼の矛先がすれ違っているのかなと思います。
両方に責任があるというのは事実だと思います。私は患者さんには「任せろ」「信用してくれ」と言っています。信用できないから彼等はネットで調べて、一生懸命自分で不安を煽り責任を背負ってしまうのだと思います。私は信頼関係を元に治療に取り組むのが良い事だと思うのですが、これが現在では全く逆です。患者さんは病気の事を医者には任せられないと思っています。医者も責任を問われてしまいますから、任せておけと言えなくなっています。そうして医者はますます自分の治療に自信をなくしてリスクを伴う治療から線引きをしてしまいます。だから婦人科・小児科医が少なくなるのです。最後に誰が不幸になるかと言ったら患者自身です。患者と医者の信頼関係は本当に重要だと思います。
信頼を得られないもう一つの背景として、医者が専門用語を使い過ぎるという事があると思います。興味深い例を挙げると、私が弁膜症の患者さんに大動脈の弁が悪くなっているという話を30分とうとうと説明した最後に、患者さんがこう言いました。「先生申し訳ないのですが、私、便秘はしていません!」。弁⇒便だと思ったのですね。「心臓には4つ弁があってね」という所から話さなくてはならなかったのです。
もっと興味深いのは、食間薬(食後だいたい2時間後くらいに飲む薬のこと)というのがありますね。私がある日食事をしていた時、隣で20代の方が一生懸命食べながら薬を飲んでいるのです。食事と食事の間ではなく、食べている最中に飲まなければならないと思ったのですね。
患者さんが何を考えているのかを感じ、言葉を選ばなければならないのは難しい事です。医者というのは自分の説明したいことを話したらその時点で満足してしまいます。それが意思の疎通に蓋をしてしまっているのではないでしょうか。
最後に、医療有資格者の皆様にメッセージをお願いします。
特に、若い医師の方には前述で申し上げた「医者と患者の信頼関係の構築」という部分を再度見直して欲しいです。目上の方に対して「お前は」という感覚で応対するのはおかしいですよね。やはり人間としての目上の方は、いくら病気を通じた関係性といえども目上の方です。
また、友達を増やし様々な経験をして欲しいと思います。
私は医者という職業が最も人生経験を必要とするのではないかと考えています。形だけの言葉や応対では20年も30年も目上の方には通じません。私は常に真剣です。経験出来ない事なら本をたくさん読んでください。1000年も前の人と付き合えます!(笑)。
そして、医学生は現実を知るべきだと思います。人生は遅れたほうが良いですよ。これは負け惜しみではありません(笑)回り道をした方のほうが、ものの道理や社会の仕組みを知っているのではないでしょうか。
医者たる者人間を診るわけです。身体の仕組みは心から来るものが多くあります。これで死ぬかも、と思ったらいくら大会社の社長でも力が抜けてしまうのです。そこで我々医者が肩を叩いてもう大丈夫だと言ったら患者さんは満面の笑みで人生を謳歌できる、医者とはそういう存在なのではないか、そう思います。
*1 Elisabeth Kubler-Ross, M.D.著 On Death & Dying, (Simon & Schuster/Touchstone),1969
(『死ぬ瞬間』川口正吉訳 読売新聞社 1971年)